久しぶりに。

わたしにはいくつかふと思い出して幸せに浸るような瞬間がある。そのどれもが些細でありふれた、なんて事はない日常の一部だ。

 たとえば、従兄弟がたまに連れて行ってくれた寂れたスーパーの本屋に行ったことだとか。20時をまわった頃ぐるぐる1人で本屋を回るなんてことは、田舎暮らしの私にはえらく新鮮だった。従兄弟の、本屋で解散する我関せずな感じも私には合っていたのだと思う。

 また、授業のない平日に母と温泉に行ったこともよく覚えている。真っ青な空の下、寝湯に転がったこと。あの時私は自由だった。

 コロナ禍になり、外出自粛になったころ母と近所を歩くことだけが外との繋がりとなった。散歩は特に禁止ではなかったけれど外出には違いないので罪悪感があったことも覚えている。散歩に出ているご機嫌な足取りの犬、シトシト雨に濡れた紫陽花、暑い夏の日お気に入りの木陰の下で縁石に座りながらアイスを食べたこと。猛烈に恋しくなることがある。あの時も私は不自由であったが、自由だった。

 社会人となり、自由はすこし消えた。

それでも不自由な瞬間を掬い取ってくれた大切な記憶は私の中に留まり続け助けてくれるのだと思う。

千と千尋の神隠し

昔から大好きな映画だ。

 

もう何十回も見ているが、劇場で見たことはなかった。どうしても見たくてこの時期に映画館へ駆け込んでしまった。結果としてお客さんはわたしを入れて3人だったので、そこまでの罪悪感はなかったが。

 

この物語は、純粋な冒険譚、成長譚の他に「責任」をよく描いた作品だなーと何十回目かの鑑賞で思った。

 

勝手に店のものを食べた責任。

湯婆婆が千尋を働かせると言った責任。

カオナシを招き入れた責任。

千尋が交わした契約の責任。

ハクと湯婆婆が交わした契約の責任。

ハクがハンコを盗んだ責任。

千尋まっくろくろすけの仕事を助けた責任。

 

千尋のような小さい女の子にまで湯屋の人々はシビアに責任を追及する。

それが働くことだからだ、と来年社会人になる私はぼんやりと思う。

 

千尋はあの世界で責任を取ることを覚え、

しゃんと背筋を伸ばし対応していた。

その背中、横顔を見るたびに涙が溢れてしまう。千尋はわたしなのだと勝手にシンパシーを感じている。

幼馴染からそっくりだと昔から言われているからかもしれない。

 

責任を負った先にトンネルの向こうが見えるのだろうか。

 

PS.千と千尋の神隠しが好きすぎて

湯屋に似ているバイト先を選んだ。

湯婆婆や湯屋の女の人に似ている人がいる職場だ。この情勢が落ち着いたらまた働きに行く。

 

 

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

ネタバレかくので注意です。

 

 

 

 

 

 

人前で喋ることができない志乃ちゃんと、音楽が好きなのに音痴のかよちゃん。他人事には思えない主人公だった。

私は、小学生の頃から要領が悪いというか人が当然のようにこなすことが簡単にはできなくて、動作もどこか変で、そんな自分をコンプレックスに思ってしまっている。

 特に就職活動が始まって、こうであれみたいなのをよく目にする。笑顔であれ、とかハキハキと喋れ、とか。それを見るたび私はこういう癖があるから直さなきゃとか、自分を恥じる。そんな自分にものすごく刺さる映画だった。

 冒頭で志乃ちゃんは喋れなかったことをばかにされてこっそり家で泣くけれど、かよちゃんの歌を笑って怒らせてしまった時は号泣して帰っていた。笑われることより人を笑ったほうが悲しい。笑われる自分より、笑ってしまった自分の方が恥ずかしい…と勝手に共感した。散々笑われて嫌な思いをしてる志乃ちゃんが音痴のかよちゃんを笑ってしまったところ、しんどかった。けれど志乃ちゃんのように笑わないかと言われたら多分私も笑うかもしれない。でも志乃ちゃんは自分の言葉を使って守ったり、謝ったりしていてかっこよかった。

 志乃ちゃんとかよちゃんの友情パートは目を細めるほど可愛いし、志乃ちゃんのまっすぐな歌声に聞き惚れてしまった。あの清掃員のおじさんと微かな見守り方が堪らない。ああいう風に人と関われる人間になりたいです。

 後半は、とにかく面倒見の良いかよちゃんとそれを寂しく思うけどうまく言語化できない志乃ちゃんがすれ違い続ける。きっかけとなる菊池くんも志乃ちゃんを笑ったりして許せないんだけど、憎めない。彼なりに一生懸命だし謝る素直さ、勇気がある。

 正直言うと少し、志乃ちゃんにイラついてしまった。志乃ちゃんは逃げている。そして周りに甘えている。でもそんな志乃ちゃんを真っ向から否定できるほどわたしは色んなことに立ち向かっていない。15歳の私が志乃ちゃんを否定できるかと言えば絶対に出来ない。高2の時に、部活の仲間に言われたことを引きずってイライラして帰りの電車の中で黙り込んでいたら当時仲良くしていた子に、私は関係ないんだからちゃんとしてよと怒られて泣いた過去がある。今にして思えば、自分の機嫌は自分で取れという話でもあるし、私が悪かった。けどあの時は、私の悲しくて悔しい気持ちを共感してくれないんだと家に帰ってから大泣きした。その時の気持ちをなんとなく思い出した。全然違うけれど。

 そしてこの物語で、彼女たちのことを笑う人間を憎く思ったけれど、実際わたしは彼女たちの頑張りを笑わない側の人間でいられるのだろうか。

 ラストシーン。かよちゃんは歌で、志乃ちゃんは喋りで、お互いがこれが自分なんだと叫んでいた。本当にかっこよかった。そして、菊池くんが1人で堂々と拍手する姿も。結局のところ、自分を1番バカにしているのは自分なのだ。「私が私を追いかけてくる」と志乃ちゃんは言った。

 結局あの3人は一緒に過ごすことはないのかもしれないけど、それはそうだろうなあと思う。2人が差し伸べた手を志乃ちゃんは結局払ったわけだから。だけど、きっと一緒に過ごした夏のことは絶対忘れないと思う。そして、周りと同じように歌える魔法も、喋れる魔法もいらないと歌ってくれた人間がいるということがどれだけ志乃ちゃんを救うのだろう。

 私も、私をバカにすることをやめたい。改善しようと努力するんじゃなくてこれも私なんだって、認めてあげたい。自分の言葉で感想を書こうとしたらこんなに纏りのない読みにくい文章になった。けどそれもこの映画を好きな気持ちが現れてると思う。また見る。

 

日向坂で会いましょう

今回の「日向坂で会いましょう」が本当に良かった。

番組の公式Twitterから予告をお借りしてきた。「4thシングルヒットキャンペーン 一歩踏み出せない女子高生を元気付けましょう!」
今回のヒットキャンペーンは
メンバーが千葉のとある女子校にサプライズ潜入!」

潜入なんてドキドキする。ハッピーオーラをテーマとする日向坂46が高校生を元気付けるなんて素敵だと思った。

いい点はヒットキャンペーンなことだ。これまで日向坂46はヒット祈願と称して、過酷なことにチャレンジしてきた。もちろん感動はした。こんなにこの曲が売れるためにこの子たちは頑張っているんだと。けれどやはり違和感があった。私たちは彼女たちのことが大好きなのにどうしてこんなに辛そうなところを見ないといけないのだろうか。結局それは私たちが彼女たちの頑張りを消費しているに過ぎないのではないか。ヒット祈願を否定しているわけではない。けれど、ヒット祈願に複雑な思いがあるのは確かなので、今回のヒットキャンペーンは楽しそうなところが見れて本当に嬉しかった。日向坂46の良さが前面に出ていたと思う。

 次に良かった点は、番組制作陣の高校生に対する目線だと思う。教室には日向坂46を好きなんだろうなと思う子もいれば、そこまで興味のない子もいたと思う。その教室の様子をカットすることなく、言葉を濁さずにいえば、日向坂に喜ぶ学生たちだけを映さなかったところがとても良かった。忖度がない。そして愛がある。番組に協力してくれた高校生への愛を感じた。

それで良いのである。興味があることは人それぞれだ。

 最後はやはり日向坂46が楽しそうだったところだ。潜入組の高本彩花が、生徒に可愛いと言われたと心底嬉しそうに廊下を駆ける姿が印象的だった。ラジオ組もやさしく愛のある態度で、生徒へのお悩み相談をしていて素晴らしかった。特に、番組でもフューチャーされていたが、まなふぃー。まなふぃーがすごく良かった。共感しつつ真摯に悩み事と向き合っていたし、そのあとちょっとズレたタイミングでがんばりまなふぃーと言って生徒を困らせていた。だが、そのあとに生徒が頭の上で手を作り、真似たがんばりまなふぃーに素敵なやり取りを見た。

 書き出せば止まらないが、本当に今回の「日向坂で会いましょう」は心に残るものだった。

最後に、オードリー が好きな人ー?とキャプテンが訪ねた時、大きな声でだいすきー!と叫んだあの子へ。大好きです。

おしまい。

就職活動

2月中旬。私はバイトをしながら、気になった会社のインターンに行ったり、説明会に行ったりしながら3月の正式な解禁日までの時間を過ごしている。ここからはたらたらと私の就職活動への愚痴を書いていく。正直、何の実りもない文章である。はあ。

 まず、私が言いたいのはESの大袈裟なところにうんざりだということだ。アルバイト先で何かをして売り上げが●%上がっただとか。それ本当?というかあなたがやったことが起因としてるかは神のみぞ知るじゃない?いや、本当の人もたくさんいると思う。けれど私はこないだ嫌な気持ちになった。大学で開かれる就活アドバイス!なんて講義に参加してみた。そこで講師はこう言った。

「多少大袈裟に言ってもいいの!わからないから!数字を出すといいですよ!」

何がいいの?私は大学まで学んで、最後の最後に嘘をつかないといけないのか。嫌だ。

 

2つめは、みんな言ってるけどみんな同じような格好になること。何が嫌って、「同じような格好」

決して同じではない。スーツにだってもちろん値段の高い安いもあるし顔だって体型だってみんな違う。自分の選択した髪型、髪色、メイク、丸ごとその人の好みだったら丸ごとその人の個性になる。けど、指定された格好で並ばされたら私たちは同じ物差しで測られて、本当の個性まではみてもらえない。

わからない。わたしはただ単に迫るに迫った就職活動について文句を言いたいだけなのかも。自分の準備不足を責任転嫁してるだけなのかも。こんな感じで私はまだ自己分析すら終わっていない。はあ。

 

うーん

たまらなく不安になってしまう時がある。自分という人間が今まで得なかったものを他人は当然持っていて、経験していないことが足を引っ張る状況になった時だ。派手な場所には行ったことがないしその頃流行っていたものを逐一追っていた自信もない。恋愛においても何もわからない。こういう動作は人を惹きつけるだとか好かれるとか、他人が自分をどう思っているかも感じ取れない。生きにくい。生きにくいと思ってしまうことが多々ある。広がった差はもう縮めることができないのではないか。

 飄々と今まで生きてきたつもりだった。得てないモノを惜しがったり、選べなかった道を後悔したこともあまりない。でもそれは間違いで、私には取りこぼしてきたもの1つ1つを丁寧に拾い上げて自分のものにしようとする作業が必要だったのじゃないかと思い始めた。私はいつもどこか少しだけズレのある人物を愛していて、周りにはそういう人ばかりだった。時間通りに行動することが難しいね。これって少しやだね、これは楽しいね、困ったねとか感情を確かめ合っては生きにくい環境を笑っていた。

 けれども私が持っていないものを当然のように持っているような人達と関わることが増えた。それはきっと良いことで私にとっても楽しいことなのだった。しかしやはり冒頭の通り考え込んでしまう。わたしはやはり取りこぼしてきたものが多すぎるのだろうか。周りと比べておかしい人間なのだろうかと。中学生のような悩み事を20を超えてからしてしまっている。 

 みんなに心配されているのだろうか。

うーん、でも私はまだ昔読んだちゃおの漫画のヒーローの名前をみんなで唸りながら思い出したいし、爪楊枝の先とかメニューの端っこにあるイラストになぜか目が離せなくなって顔死んでいるよ、変わってるねなんて言われたとしても、自分がしたいことをしたい。

 もしわたしが5.60代になって実りのない若い時代だったと嘆いたとしても(そんなことにはしない)嫌な男と付き合ってそれを後悔したとしても、全部全部わたしの痛みだ。他人に勝手に想像される筋合いなんてないのだ。

 

なんてね、テスト勉強しよう

 

志田愛佳さん

卒業が発表されてしまった。あっけなく。多分もう私たちの前に出ることはなく、やめてしまうみたいだ。文句ならいくらだって言える。またねって言ったじゃん。握手券まだあるよ…。さみしいよ。もう会えないの?とか。

でも、戻ってきてという言葉がどれほど残酷に響くのかはわかる。わたしと同い年の女の子が私的なことを面白おかしく書かれて、戻ってくることがどれほど勇気がいって、どれほど神経をすり減らしてしまうことか。わたしはもう、アイドルが辛いことを乗り越える姿を消費したくない。だってわたしは応援はできても助けることはできない。いつだって戦うのはアイドル自身で、スキャンダルから立ち直れる女の子だってすごいけどそれを当たり前のように思ったらダメだ。無理してアイドルでい続ける必要なんてどこにもないのだ。結局。成長途中の女の子を応援することは一般的にはなったけれど、物語のように思ったらダメだ。そこには私たちと同じように意思を持って心を持った女の子たちがいる。自分が描くシナリオのように進めなんて思ったらダメなのだ。

後悔ばかりが募る。最後の握手、もっと券を買えばよかった。大好きだよって何回も言えばよかった。

なんとなく、予感はしていた。写真集のカットを見たとき憑き物が落ちたというか爽やかで後悔はないような表情をしていた。志田愛佳さんを追いかけてから初めて見た表情だった。

幸せになってね、推しメン。本当に心から応援していました。もうアイドルじゃないから応援するなんて言ったら変かもしれないけど、

ずっと幸せでいてほしいなってこれからも思ってるよ。

追記

ブログを更新してくれました。

卒業する前に本人から言葉をもらえて嬉しかった。やっぱりまたねってファンたちに言ってくれるんだね、ありがとうね。私も欅坂46を応援していくよ。またね